映画「富士山頂」

昨日は石原裕次郎さんの二十三回忌特別番組「富士山頂」のテレビ放送がありました。映画「劔岳点の記」に続いて新田次郎先生の原作を見られて何だか感無量です。
趣味が山登りですから新田次郎先生の本は殆どと言っていいくらい読みましたが、登山関係の本の中でも「劔岳点の記」や「槍ヶ岳開山」「孤高の人」など記録文学的なものはさすがだと思います。

「富士山頂」は昭和38、39年、と二年間に渡って富士山頂に気象レーダーを設置するまでの物語です。
年間の作業可能日数は40日、2年の建設期間は実働80日。しかも「日本の象徴」である富士山の頂上に、「世界一」のレーダーを設置するという国内外から注目される事業であり、失敗は許されない。
厳しい気象条件と高山病との戦い。建設は困難を極めます。

この物語にこんな一文が出てきます。
「私は毎日、作業員たちに、お前達は富士山に名を残すために働けと云っているんです。なぜ、そんな気持ちになったか申しましょうか。測候所員の生活を見たからです。驚くべきほどの安月給で食費は自弁で危険手当さえなく、生命を的に一年中ここで働いている所員たちを支えているものは富士山頂で働いているという使命感なんです。これは全く二十世紀の奇蹟のようなものですよ。私はその奇蹟を、私の仕事に持ち込もうと考えたのです。ここで働けば、お前達の名は、銅銘板にきざまれて、レーダー観測塔の壁に残るぞと云ってやっているのです。初めのうちは彼らは半信半疑で聞いていましたが、今はそれを信用して働いています。彼等にやろうという気が起きたのは、このことを云い出して以来なんです。」

21世紀に入り日本の国も日本人そのものも大きく変わった気がします。今の社会に金銭や快楽より、名誉のためだけに過酷な労働を選ぶ人が果たしてどれくらいいるでしょうか?
標高3776mの場所と言うのは通年有人気象観測を行っている場所としては世界一高い場所なのです。

この富士山測候所に関してはやはり先生の作品にある「芙蓉の人」が先駆けとしてあるんですね。
明治半ば、高層気象観測実現のため、富士山頂で越冬観測を試みた野中到、千代子夫妻の物語です。
南極にも匹敵する厳しい寒さと栄養不足で、結局3か月足らずで断念せざるをえなかった訳ですが、二人の挑戦は日本の気象観測の発展に多大な影響を与えました。
現在の測候所のあるところに、到の観測小屋がありました。小屋の周りに積み上げられた溶岩の一部が、測候所の石垣に使われているそうですが、どの石がそうなのかはもはや誰にも分かりません。
私も富士山に登った時に少しでもその歴史に触れたくて、そっとその石垣を手でさわってみました。
到の仕事が現代の気象研究の礎となって台風の砦として期待された富士山レーダーが完成したのです。

本の中で強力に撤退を勧められた際、到は
「国のために仕事をしているのであったなら・・・たとえ命を落とすことがあっても、やむを得ないことではないか」
だが、中央気象台の和田雄治技師は再起を期すよう諭す。
「富士山はけっして逃げやあしない」

そんな歴史があった富士山測候所ですが、2001年にレーダードームが撤去され、今はその仕事を気象衛星に譲り、完全に無人化されています。
これも一つの時代の流れだと言うことでしょうか。建設当時は残念ながら生まれていませんでしたが、撤去作業の様子は運良く写真に納める事が出来ました。
朝に夕にその姿を見られる場所におりますが、やはり富士山は他の山とは一線を画す特別な山なのです。

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